日本武(ヤマトタケル)「日本神話の世界」

日本武ヤマトタケル

日本武1
神格
軍神、武神、国土神(農業神)
祀られている神社
熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)
建部大社(滋賀県大津市神領町)
十和田神社(青森県上北郡十和田町)
刈田峰神社(宮城県刈田郡蔵王町)
都々子別神社(福島県白河郡棚倉町)
鷲神社(東京都台東区竜泉寺町)
花園神社(東京都新宿区)
焼津神社(静岡県焼津市焼津)
気比神社(福井県敦賀市曙町)
大鳥大社(大阪府堺市鳳北町)
平田神社(宮崎県児湯郡川南町)
日本武2
神徳
出世、開運招福、厄除け、商売繁盛、交通安全、試験合格、国土安穏、諸願成就
別称
日本武尊、倭建命、小碓命(おうすのみこと)、倭男具那命(やまとおぐなのみこと)、日本童男命(やまとおぐなのみこと)
系譜
景行天皇の第二子、仲哀天皇の父
詳細
日本武(ヤマトタケル)は日本神話において最も武力に優れた英雄的な神で、半神半人である点なども共通しているギリシャ神話における最大の英雄と言われたヘラクレスを彷彿とさせる多くの活躍が「日本書紀」や「古事記」に記されています。

ヤマトタケルは景行天皇の皇子として出生し、後に武神とも軍神とも呼ばれたその体躯は2メートルにも及んだとされ、その姿は気迫にあふれていたと伝えられています。
また、その力は人間離れしたものとして描かれており、当時、強大な勢力となっていた大和朝廷に属していたヤマトタケルは周辺の反抗勢力を次々と打ち倒していきます。
ヤマトタケルの存在はもはや大和朝廷の軍事力のシンボルともなっていたようで、その活躍があまりに大きなものである事から、現在では様々な地方の伝承がヤマトタケルが行ったものとして集約されたのではないかと考えられている程です。

武神ヤマトタケルは幼少の頃より超人的な力を持っていたようで、ある時、父親が「お前の兄が反抗的なのでお前から諭してみよ」と軽く命じられると兄の大碓皇子(おおうすのみこ)の手足を持ち前の怪力でもぎ取り、掴み潰してむしろに包んで捨ててしまいます。
これを知った父親は人知を超えた息子の力とその残忍性に恐れをなし、自分から遠ざける為に戦場へと送り込む事を決めたのでした。

こうして西国へと出生する事になったヤマトタケルは九州でクマソタケル兄弟を打ち破り、出雲においてはイズモタケルを討つなど次々と戦功をあげていきます。
西国での大活躍を手土産に意気揚々と都へと戻ったヤマトタケルでしたが、休む暇もなく、今度は東国への出生を命じられます。
東国に向かう前にヤマトタケルは叔母の倭姫のいる伊勢神宮を訪ね、倭姫はヤマトタケルに三種の神器のひとつである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と小袋を与えます。
その後、野原で火攻めにあった際には天叢雲剣で周囲の草をなぎ倒し、小袋に入っていた火打石で火をつけ、逆に敵を焼き払って勝利をおさめます。天叢雲剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになったのもこの時からだとされています。
このヤマトタケルが持つ草薙剣は元をたどればヤマタノオロチを倒したスサノオが手に入れ、アマテラスに献上したものであり、それが回りまわってヤマトタケルの手に届いた事になります。

東征を続けるヤマトタケルの前にはその後も様々な困難が立ちふさがり、上総国(房総半島)に渡る途中、海上で嵐に遭って窮地に立たされた際には海神の怒りを鎮める為に妃である弟橘姫(おとたちばなひめ)が自らの意志で海に入水すると嵐はやみ、ヤマトタケルは最愛の妻を失う事となりましたが無事に上総国に上陸する事に成功します。

東征を終え都へ帰る途中に尾張(現在の愛知県)に寄る事にしたヤマトタケルはそこで出会ったミヤズヒメと結婚し、伊吹山の神を退治にいきますが、護身の呪力を持った草薙剣を妻に預けた事が命取りとなり、祟りにあってそのまま帰らぬ人となります。
死に際し、ヤマトタケルは次のような歌を残しています。

「倭は 国のまほろば、たたなずく 青垣、山隠れる 倭しうるわし」

ヤマトタケルの遺体を納めた陵墓からは白鳥があらわれ天に昇ったと伝えられています。

皇子という立場にありながら、都に留まる事は殆どなく、各地で戦に明け暮れる事となった日本神話の英雄は不遇の死を遂げながらも、今なお多くの信仰を集め続けています。

尚、ヤマトタケルは「日本武尊」と書かれる場合と「倭建命」と書かれる場合とがありますが、これは前者が日本書紀においてのヤマトタケルの漢字表記で後者が古事記においてのヤマトタケルの漢字表記です。
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